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木綿街道の歴史

雲州平田 町並みの歴史

島根県建築士会 石川良一

平田に関する記述は、「出雲国風土記」 に爾多郷(沼田郷)として記されています。この地名から豊かな水があり、稲作に適した地であったことが伺われます。

1300年代の前期には近江商人らによって開拓がなされ、以降在郷の商人の町として栄えました。そして鹿児島県資料「家久君上京日記」1575年を参照すればすでに、かなり大きな町並みが存在していた事がわかります。また「坪内家文書」1569年の中にある平田目代連署書状の文面から、当時の商人の生き生きとした暮らしぶりが感じられます。またこの戦国時代に平田屋佐渡守による、町割り(都市計画)が行われ、現在の平田の町の原型が出来ています。今もそのなごりである防御用の鉤型路や、袋小路を意味する袋町という町名や、船川と湯谷川、後川を利用して城下町の堀川のように町をぐるりと取り囲んだ形態は、戦国時代の戦乱を意識した町割りだったということがよくわかります。平田屋佐渡守はこの後毛利家吉川氏に請われ広島の城下町を設計することになります。

江戸時代になりますと、月山富田城から松江に城が移り松江は城下町として栄えましたが、平田は物資の集散地でそれに続く大きな町として、17世紀半ばには地銭帳にみられるように町の形態が整えられ、農村地域の消費を背景として繁栄しました。本町通りには、儀満本陣、木佐本陣があり、町の片側半分近くの土地を有していたとの話も伝えられています。当時松江藩の主たる収入源は米であり、これに次いで原手の綿花、山手の砂鉄が重要であり、大阪で声価を得た「雲州平田木綿」の集散地として賑わい、木綿業を中心とした商人らによる文化の全盛時代を迎えています。儀満家および斐川の勝部家を中心とし、斐伊川の土砂を利用した「川違い」を行い大規模な新田開発も行われました。

明治時代になると、綿花に代わり養蚕を行い木佐家を中心として製糸業が発達し、明治末期には生糸の町として、県下第一の工業都市として栄えました。

木綿街道の年表

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本石橋家の歴史

本石橋邸は、木綿街道でもっとも古い1750年頃の建物です。当時の地主の家でした。町家特有の切妻造りですが、間口の狭い妻入り造りの母家の間口を広くするために両脇に錣葺きを設け、間口を五間半に広げています。

本石橋家の先祖

祖先は、もともと鎌倉幕府を開いた、源 頼朝(今の大河ドラマ義経の兄)の家臣であったようですが、天下の権勢が北条氏に移った頃から、武家を捨てて西に下り、江戸時代のはじめ、約250年ぐらい前と思われますが、出雲大社の近くを選んでこの地に居をかまえたのではないかと推定されます。(宝暦年代・1750年頃)はっきりしたものが残っていません。

石橋家について

石橋家は、当地方の指導者を生み出し、平田の開拓、産業振興、教育の充実に力を注いでいます。中でも、江戸時代末期から明治にかけて活躍した石橋孫八氏(弘化4年~大正4年)は本人も漢学者でありましたが、日本を代表する漢学者、国学者を招き、出雲地方の学問振興につとめ、自宅の本石橋を開放して郷校(いわゆる塾のようなもの)という学校を開いて子弟教育に力を入れました。

また、孫八氏の父道喜氏はたまたま、石州の津和野藩士で当時の尊王運動の指導者でありました大国隆正を幕府の追求から、かくまい、「はしご階段」と「かくし部屋」を設けたと云われます。「はしご階段」は今も残されています。

幕末の国学者大国隆正と本石橋家

歴史の上では、大国隆正は文久3年今から142年前(1863年)に平田の豪家石橋道喜宅に滞在し、「国体異同辨」を著すとあります。5ヶ月間ぐらいの滞在と伝えられます。また、明治中期には、国政にも参画する政治家でもありました。石橋孫八氏の4男正彦氏(明治17年~昭和16年)は平田町長、県議会議員として地方行政に功績を残し、特に農業振興(生産の増強と小作問題の解決に盡す)に力を尽くし、「農民の父」とも仰がれました。

木綿街道交流館(旧長崎医家)の歴史と由来

外科御免屋敷と称される旧長崎医家

この交流棟は、1738年に長崎という方が新町の金具屋に借家をして外科を開業された。その4年後1742年に外科御免屋敷をいただき1927年(昭和2年)まで代々開業をしてこられた外科の名門医の屋敷を建替えされたものです。

二階が調合の間。対し先ず持って厚く御礼申し上げます。さて、あれ以降に新事実が数々判明しました。

“旧長崎医家”は文献に裏打ちされた希少な町医の建造物と判明!!外科御免屋敷にて候旧長崎医家には、元祖の正伯翁が備忘録として記録した『永代万留帳』と題された資料が保管されていました。この冒頭には「外科御免屋敷之事」が記述されています。注釈すれば、外科は医学の一分野で創傷を治療し、内外の諸器官の疾患に手術を施す。この語は『解体新書』以前からある漢方医学からの古い用語である。

付けたりですが、内科もそうかと思ったら、さにあらず漢方では本道(ほんどう)と呼ぶそうである。ご免ご免は、失礼した時の言葉であるが、御免とは、免許証がそうであるように「許される」である。では、なにが許される屋敷かといえば、当時の税の納付が許されたのである。江戸時代、村々では主として年貢と言って米で納めた。

名医の屋敷が町家保存「交流館」として生まれ変わる

町(人口密集地※)では、地銭(じせん)と称して宅地に課税され、銀銭をもって納税することが定められていた。と言って、松江藩が外科医に対して直接免税措置をとった訳でもない。住民の生命保持保全に重要な医療。これに携わる医者の定住は地域社会にとって今も昔も切実な市民生活の問題であった。この対策として、町組織が住民の医療充実からとった策である。その資格ありと街が認めた医者に対して、屋敷を給し、宅地に課された税を町で負担し、住民の福祉厚生に応えて当初の市の案では、この由緒ある屋敷は破壊され軽量鉄骨造の交流館が建設されることになっていた。この度の改正案では、「外科御免屋敷」の重要性と町並みの景観保全から、伝統的な木造建築による町屋風交流館に変更し、既存の旧長崎医家は保存して交流館の核として活用され保存されることとなった。

改めて知られる医家の間取り

元文3(1738)年、長崎祐伯と改名し新町の金具屋借家にて開業した。認められ寛保2(1742)に外科御免屋敷を給わってから昭和2(1927)年当主の死亡までの約200年の長きにわたって新町の地で代々開業してこられた外科の名門医の屋敷があわや消えようとした。重ねて、全面ではないが保存されることを、みなさまとともに喜びたい。先に紹介した古文書の出現によって、今まで墓石の銘文と断片的な資料でしが判らなかった多くのこと知られるようになった。

江戸時代から綿々と続いた医家の由緒ある建物であることが判明したことにより、この事実を裏付ける医家として重要かつ特徴的な間取りが遺存することに、改めて気づいた。近世の医者の多くは漢方医学であったから、今のように診察室や処置(手術)室のような医療専科の間取りではなかった。

ただし、漢方医宅の特徴は、漢方薬を調配合する「調合之間」の存在であった。漢方薬を飲まれた方、とくに生薬を自宅で煎じて飲まれた方ならよくご存じであると思うが特徴のある臭気。お客様をとおす奥の間や、家族団らんの居間の横に、そのような部屋があっては生活が重苦しい。今日でも医者は市民層にあってハイクラスである。加えて、薬の調配合は一子相伝ではないのにせよ、秘伝中の秘伝であったことから、通りを歩く人様にも見えたり、日の射す店先に近い部屋に設ける訳にもいかなかった。広い土地のない町屋の医家ではその解決策として、屋根裏利用が考えられた。通気に工夫を凝ら ※市内で他に地銭を納めた場所は、猪目、十六島本郷、小津等がある。